この植物は何だろ?

Img_2877
近所の、いやちょっと離れているので比較的近いというべきだが、いちおう畑の体裁の土地に堂々と育っていた植物。けっこうデカイ。栽培されているとしたら何らかの有用性があるのだろう。葉?茎?地下茎?あるいは実?

見た目には茎の節なんかが目立っていて、春先のイタドリの姿がそのまま巨大化したような印象。といってオオイタドリとは全く違うことは確信がある。葉っぱの形も茎との付き方も違うと思う。

大きさはともかく、葉の形はなんとなくシロザの面影があるように思うが、なんで翼がついているのだろう。

タンポポとかダイコンとかの面影も感じるが、葉っぱの葉脈が別モノだと主張している。葉脈が独特。葉はおおむね三角というべきだろうが、葉脈は曲線的であり、輪郭と内部構造が一致しない。

帰化植物の風情を感じるが、帰化植物図鑑では見つからなかった。

久しぶりにPosterousに来てみたら、なんだかシステムの風景が変わっていたのでちょっと書き込んでみた。

以上

 

 

 

 

「読む自由」を「考える自由」なみに引き上げるKindle

電車の中で本を読んでいると他人の視線が気になることがある。

有名人じゃあるまいし、誰も見知らぬオジサンが何を読んでいるかなんて興味を持つはずがない。自意識過剰以外の何者でもない。

とはいえ、外出時にはまず持って行かない種類の本があるのは事実だ。どうしてもという場合は表紙カバーをつける。好奇の目にさらされたくないから。

Kindleはこの問題を自動的に解消してくれる。他人の好奇の視線はKindleという物体に集まる。近くで画面を覗き込まない限り何を読んでいるかは判らない。

12月8日のNYTimesの記事Lusty Tales and Hot Sales: Romance E-Books Thriveは、電子ブックでロマンス小説が売れ筋になっているのは、地下鉄の中であの煽情的な絵の表紙を気にせずに本を広げることができるからではないか、という説を紹介している。

斯くしてKindleを隠れ蓑に、公衆の面前で、何を読んでも他人には気付かれないという安心感が生まれる。

そもそも他人が何を考えているのか外見から言い当てることはできない。だから考えることは自由だ。その自由圏が電子書籍端末によって読む行為にまで拡張しそうだ。

電子書籍端末で世の中どう変わるのだろうか。

電車の中だけでなく、学校の教室で、あるいは会社のオフィスでも、人々は考える自由を、妄想に耽る自由を、謳歌してきた。こういう場所でも読書の自由圏が広がる可能性があるだろう。もはや外見だけでは教科書も仕事の資料も区別がつかないのだから。

従来の常識では書店の棚に並べられないようなアンダーグラウンド書籍が自由に流通することになるのかも知れない。電子書籍は在庫投資が不要で複写コストもゼロという基本性能もこれを後押しするだろう。

人類史上「読書」が最も栄える時代がこれからやって来るのかも知れない。

こんなことを褒めてもKindleは困惑するかも知れないが…

小Kindleに続けて大Kindleを買った理由は画面サイズにある。自炊した普通の単行本サイズのページを縮小せずに一画面に読みやすく表示したかったのである。

大Kindleは机の上に置く。PCはファンの音がうるさいし気が散るので電源を落して、自炊した本とジックリ向き合う。時には読みながら手書きでノートを取る。

その時、当たり前だが、Kindleのページが勝手に捲れたりしない。紙の本のように文鎮や手で押さえる必要がない。些細なようでいてイライラさせられるあのストレスから解放されるのが実に爽快だ。

教科書や専門書を広げてノートをとったり練習問題をやったり勉強をするのにとても良いのだ。Kindle時代に生まれた学生諸君は幸せである。これで勉強が捗らなかったとしたら全部自分の責任になるが。

昼休み、ランチを取りながらの読書にもありがたい。両手が箸やナイフやフォークでふさがっていても、開いたページがそこにじっとしていてくれる。電子書籍リーダーなら当然というか必然の基本性能にすぎないが、それがいいのだ。

正直なところ大Kindleのページ捲りの動作は遅いと思う。もっと速い方がいいが、ページ捲りを高速でブッ飛ばす人は本当に本を読みたい人なのかどうか怪しいとも思う。読むんだったら、それよりも開いたページがジーッと静止してくれることの方にこそ価値を見いだすはずだ。

特に分厚い書籍は、重さもさることながら、机上に広げたとしてもページを開いたままに静止させるのが一苦労だ。煉瓦ブロックのようなペーパーバックも困る。まるで読まれるのを拒否する本じゃないかと皮肉の一つも言いたくなる。

Kindleでの読書は、座り心地のいい椅子とか寝心地のいいベッドなんかに似た快感があって、元に戻りたくないという気分になる。ひとたびこの味をしめてしまうと、読書という行為としては、紙の本の方がむしろ仮の姿だったような気がしてくるから恐ろしい。

マテ茶と蕎麦茶のブレンドを試す

マテ茶、独特の苦みに馴れていないので飲みにくく感じていた。そば茶はうまみを感じるが味にエッジがなくてキリッとしない。そこで両者をブレンドして自家製ティーバッグを作ってみたらいい感じ。健康食品だから飲めと言われてもクスリじゃないのだから機能性だけでは続かない。これで在庫が捌ける見通しがたった。

(download)

湯河原カンツリー倶楽部でコース・マネジメントを考えた

Yugawara_cc_12

湯河原カンツリー倶楽部は真鶴半島を見下ろす斜面に作られたアップダウンの激しいコースである。ただ歩くだけでもいいハイキングになりそうな山岳コースと言ってもいいほどだ。若き日の、まだプロとしてブレークスルーする前の青木功選手が、オフ・シーズンにここでキャンプを張って走り回り足腰を鍛えたという伝説のコースでもある。

多くのホールで、グリーンを狙うショットは大きな高低差を考慮する必要があり距離感をだすのがむずかしい。残りの距離が短くても斜面でスタンスをとることが多いのでボールを正確に捉えるのが容易ではない。小さなグリーンとすぐ後ろに控えるOBゾーンはアプローチ・ショットに緊張感を強いる。グリーン回りのラフが深いホールも多く、小さなグリーンなのに寄せワンをさせまいと意地悪をする。

おまけにグリーンは傾斜がきつく速く仕上げてあることが多い。昨日も表示はなかったが実感としてはスティンプ・メーターで10フィート以上はあったと思う。

世の中一般的にはティーショットを適当に打っておけばあとは何とかなるコースも多いのだが、湯河原はそうは行かない。攻め方をよく考えて、明確に作戦を決めて、それに則ったクラブ選択とショット・メーキングを達成したプレーヤーにのみ密かな満足感を与えてくれる。いわゆるコース・マネジメントのセンスを研く場として優れていると思う。

例えば12番ホール。450ヤードのパー5はスコアカードの表示だけを見たらサービスホールだと思われるかも知れない。初めてこのホールをプレーする人はドライバーを持ってティーグラウンドに立つと何とも言えない打ちにくさを感じるはずだ。

狙い目は左側にあるのだが、ティーグラウンドから100ヤードほど続く左側の壁のような林が左狙いを邪魔しているので目標に向かってストレートには打てない。

正面に真っ直ぐ打つと微妙に左に曲がっているコースの右ラフかその奥の林に突っ込んでしまう危険を感じる。コースはドローボールを要求しているのだが、飛距離が中途半端だと最初のフェアウェイの切れ目のラフにつかまってまう。その更に先の一段高いフェアウェイに運ぶには大きなキャリーが必要になる。

つまり、大きなドローボールを打てない限り、このホールのドライバー・ショットは成功しないのだ。多くのアマチュアにとってはかなり難易度が高いことがわかる。しかもその後の第二打でグリーンを攻めるには、恐らくロングアイアンで右の巨大な松の左側を通して奥の高みにある小さいグリーンに止めなければならない。これも極めて難易度が高い。

と言って二打を手前に刻むとすると、巨大松の左のフェアウェイに置くしかない。打ち過ぎるとその先の急な登り斜面のラフに突っ込んでしまうからである。しかし、これではそもそもティーショットでドライバーを使った意味がなくなってしまう。

ここで発想を切り替えて、第一打は第一フェアウェイの先端付近に持って行くと戦略を決めれば、ミドル・アイアンによる平均的なショットで十分目標をクリアできる。第二打もミドル・アイアンで巨大松の左側のフェアウェイを狙うことになるが、これも難易度は高くない。そこに持って来れば仕上げの三打目はショートアイアンのフルショットの高い球を小さいグリーンに上から落とすことが可能になる。このホールのグリーンはそれ以外の球で攻めることは考えにくい。

コース・マネジメントとは、確度の高いアプローチ・ショットを打つ場面を作るためにその前のショットを逆算して構成することとも言えるだろう。コースというのはグリーン側からティーグラウンド方向に振り返って見ると意外に優しい表情を見せることがあるが、その優しさを発見することだろう。

ドライバーを持った時には意地悪で難解に見えたコースが、アイアンに持ち替えるだけで一転して穏やかな風景に変化する。こういう風景の変化を楽しむことこそがコース・マネジメントの醍醐味だろう。

距離はバック・ティーからでも6,251ヤードと短い。パーが71なのにコース・レートは70.0であり、その差は1.0しかない。比較参考のために太平洋クラブ御殿場コースはレギュラー・ティーで6,484ヤード、パー72、コース・レートは70.2と差は1.8と湯河原より大きい。十里木カントリーになると6,224ヤード、パー72でコース・レートは68.4と、差が3.6もある。いかに湯河原は侮れないコースかということがわかるだろう。

Kindleで本フェチからも脱出

Kindleを持ち歩くようになってから、外出する時にどの本を持って行こうかなどと本棚の前で迷う必要がなくなった。当面読みたいものはすべてKindleに入っているわけだから。外出前の準備がシンプルになった。

ギターの演奏に出掛ける機会は多くはないが、今は、当日演奏する譜面だけは紙とか本のまま持って行くが、その他の練習用の譜面は大Kindleで済ませる。

小Kindleにはよく利用する電車などの時刻表や路線図をpdf化して入れてある。東京都の地図もいれてある。この二つはけっこう参照頻度が高い。ここらへんは私がiPhoneおよびその類似品を持っていないからとも言えるが。

時々Wineのラベルが気になるのでヒュー・ジョンソンのPocket Wine Bookやジャンシス・ロビンソンの葡萄の品種の本も入れてある。その他、リファレンス系の本を何冊か突っ込んである。

そもそも旅のお伴は文庫本や新書の役目だった。本のサイズや軽さに意義があった。しかし、Kindleはそういう商品差別化の意味をなくしてしまったと言えるだろう。

サイズの話ついでに触れると、新聞は、通勤時間帯の田園都市線の中で殆ど絶滅種への道を歩んでいると言っても過言ではない。あの混雑の中で新聞を広げることは不可能だ。いや、不可能だった。これが小Kindleなど携帯端末のおかげで息を吹き返した。日本の新聞社はこの現実をちゃんと認識しているのだろうか?どうも電子新聞への取り組みに潔さが感じられないのだが。

小型本の対極にある厚くて重たい書籍は、現実問題、移動中の読書が多い人間には、なかなか読み進めることができない。いい本なんだけど読めない。

それが今はいつでも開ける。こんな嬉しいことはない。だからこそ!分厚い書籍でも雑誌でも頑張って裁断・スキャンしてpdf化しようという気分になる。これまで自炊した中で一番厚い本は957ページが一冊。その次に500ページ前後のものが数冊ある。これは私の読書生活の歴史の中で革命的なことだと思う。

もっとも、モノとしての本に対するフェティシズムがあったのだろう、装幀が立派な厚い本ほど解体することに心理的抵抗があった。こんなに丁寧に作られた職人技の工芸品を壊していいのだろうか?古本屋で高く買ってくれるんじゃないか?という邪念まで湧いてくる。

本質的には、読むか、読まずに売るか、の選択だ。本というモノを読むあてもないまま保存することに意味はない。ドライに割り切るまでに要した時間はKindle到着後約3週間だった。意外に早かった。それだけKindleに説得力があったということだ。

結局Kinちゃんのおかげで本フェチからも脱出することができたのだった。どんどん憑き物が落ちて行く。

Kindleはネット・バカのサナトリウム"sanatorium"なのだ

Kindleのディスプレイは液晶ではなくモノクロのe-ink表示である。カラーがでないとかレスポンスが悪いとか難クセはいくらでもつけられる。不完全な技術であることは明らか。しかし、私は素晴らしいと思う。正確に言うなら、数ある(あったはずの)テクノロジーの中から敢えてe-inkを選んだプロダクト・マネージャに敬服する。

そもそもKindleとは何なのか?もっと本質的には、そもそも読書とはどういう行為なのか?とまで悩んだのではないかと思わせる。

まず、バックライトを必要とする透過型の液晶を選ばなかったこと。

先日、友人の別荘にiPadを仕事で使いこなすヘビーユーザが2名、Kindleユーザ1名(私)が集った。大きく開け放った窓から朝の陽光が差し込む朝食のテーブルの上に二種類のデバイスが並んだ。前夜、あれほど鮮やかだったiPadのカラー液晶は強い自然光の下では哀しいほど精彩を失ってしまう。譬えに悪意を込めるつもりはないが文字通り「昼行灯」。

トマト、レタス、トースト、ベーコン・エッグ、コーヒーに並んで今朝の新聞があるべきところ、その位置を違和感なく占めるのはe-inkのKindleの方だった。G3の無線を通じて配信されたその日のヘラルド・トリビューン紙を表示している。陽光が明るければ明るいほどクッキリと文字を見せてくれる。仮に朝食メニューが鰺の干物、ご飯、味噌汁であったとしても、Kin之助でござる。

一見するとKindleが書斎派でiPadが屋外行動派という印象があるのだが、じつはiPadは屋内派であって、Kindleこそがハンモックに揺られての緑陰読書の夢を現実のものにしてくれるのである。

Kindleはカラーも捨てた。

何も敢えて排除するべきフィーチャではないが、恐らく技術的・コスト的に諦めたのだろう。しかしこのやや苦汁の選択は致命傷にはなっていない。

読書とは何か?つきつめると著者の言葉を受けとめ噛みしめる行為である。そこで大切なのは言葉を伝える文字だ。カラーが無いことによって文字そのものの存在感がむしろ大きくなった。サイレント映画が映像表現に対する感度を研ぎ澄ますのと同じだろう。

同じモノクロの文字でもサイズを大きくするだけで著者の息づかいが聞こえるような気がすることさえある。そういえば昔は文字との付き合いはとても親密なものだったのだ。その感覚がKindleで蘇るような気がする。

Kindleは文字だけの表現をシッカリと受けとめるのに気が散る要素をうまいこと排除してくれていると感じる。

カラーについては偶然の産物かも知れないが、Webアクセスを不便にしているのは一つの見識だろう。厭味を言っているわけではない。描画のレスポンスが遅いと思われるe-inkで今日の動画も当たり前の文字通りマルチメディアのWebページを自由自在に表示することを期待されても無理だろう。また、それを実現するために蔵書スペースでもあるメモリーをどんどん使われてしまっては読書端末として本末転倒である。そのトレードオフの中で読書体験の質の向上を重視したのだとしたら文句の言いようがない。

それどころか、Kindle設計チームはニコラス・カーのネット・バカ論の批判に堪える端末を作りたかったのではないかとさえ思われるのである。きっとそうだ。

Kindleはネット・バカのサナトリウム"sanatorium"なのかも知れない。とにかくよく効く。

Kindleを携帯するようになって週刊誌を買わなくなった

Kindleを携帯し始めてからなにが変わったかと言えば、週刊誌をほとんど買わなくなってしまった。月刊誌もかなり減った。以前は毎週2〜3冊の週刊誌、毎月4〜5冊の月刊誌を買っていた私がこうなった。雑誌業界に友人もいて、彼等に多少の義理を感じることがないでもないのだが、こうなった。

Before Kindle略してB.K.時代、キオスクなどでついつい雑誌に手を出すのは電車で移動する数十分ほどの時間のヒマ潰しが目的だった。ホントにわずかな時間の手持ち無沙汰が我慢できなかった。After Kindle略してA.K.時代になったら、ポケットの小Kindleがいつでも相手をしてくれるようになった。こうしてKinちゃん(と呼ばせていただきますが)のおかげで週刊誌病から解放された。

ちょっと引いた目線で週刊誌という媒体を改めて眺めると、中吊り広告や目次の刺激的な見出しが期待させるほどのネタが詰まっているわけでもない。毎週あくせくと新鮮なネタを追いかけ続けるからテーマの深掘りができない。いい記事がないとは言わないが、殆どはアンコウの提灯程度の疑似餌みたいなもので、要は買わせる仕掛けでしかない。

これに対してKinちゃんには私が読みたいものが満載である。自分で編纂したのだから当たり前である。週刊誌はちょっとやそっとの記事ではKinちゃんに対抗できない。Kinちゃんは週刊誌の天敵かもしれない。私はそう感じている。

月刊誌は内容はよくても分厚さで週刊誌より更に不利だ。買えば買うほどカバンが重たく膨らむ。おまけに菅内閣になってから言論誌の政治・政局評論が一段と虚しく感じられるようになったことも災いしている。それでもたまたま買った場合、その月刊誌は読む前に自炊して自家製電子雑誌としてKinちゃんの中に入れている。望むらくは自炊しやすくすぐにバラける製本にしてほしい。また、ScanSnapが間違って2枚一緒に紙送りしないような紙質を採用してほしい。というのは勝手すぎる意見だが。

そういうわけで、Kindleのおかげで本代が毎月8千円ほど減るというおまけがついた。もちろん私はKindleが出版社を窮地に追い込むことを喜ぶものではない。雑誌も早く電子版で勝負して欲しいと思う次第。

Kindleを使い始めて2ヶ月がたった

2010年9月29日のこと。ある本をAmazonで見つけたが持ち歩くにはちょっと重たそうなハードカバーだった。内容的には買いたかったが既に膨大なわが家の積ん読本を増やすだけじゃないかとのためらいがあった。

その瞬間ふわっとKindleのイメージが湧いた。あの小さいKindleならこの本より確実に薄いし軽いだろう。だったら電車の中でもコーヒーショップでも読めるから積ん読にはならないかも知れない。調べるとその本にはKindle版があった。価格も紙より安い。読みたいと言っても一刻をあらそうほどの緊急性もなかったので、Kindle端末の到着を待つことができる。円高ドル安にも後押しされた。

かくして私はKindleを買った。AIDMA的にいうと、AIまでは済んでいた私がDMAを一気に駆け抜けた。

10月6日の夜、帰宅するとKindleが届いていた。正確には"Kindle 3G Wireless Reading Device, Free 3G + Wi-Fi, 6" Display, Graphite, 3G Works Globally - Latest Generation"という製品である。

しばらく使ってみてKindleがいたく気に入った私は10月15日にDXも注文し19日に受け取っている。DXはちょっと高いし日本語サポートはまだ無いが自炊PDFに価値を見いだした私には十分魅力的に見えたということだ。

ジャケットのポケットには小Kindle、カバンの中には大Kindleを携帯することになった。立てば小Kindle、座れば大Kindleと使い分ける。

以来今日までの2ヶ月に14冊のKindle本を買ったが無料の古典が6冊含まれている。本当の意味で「買った」のは8冊だが、正直なところ最初の興奮の中での衝動買いも何冊かある。ちょっと後悔しているが、Kindle版は安いので傷は浅いと慰めている。

12月8日現在のコンテンツの状況は以下のとおり。KCはKindle形式のもの。mp3はBGM用に入れたもの。
【小Kindle】PDF=176 有償無償KC=12 サンプルKC=32 購読新聞=1 その他mp3=14
【大Kindle】PDF=204 有償無償KC=22 サンプルKC=1 購読雑誌=3 その他mp3=14

mp3を除くと、PDFの占める割合は小Kindleで80% 大Kindleで89%。私にとってKindleは第一に「自炊」本リーダーと化している。ちょっと偏った使い方なのかも知れない。日本語のKindle本はまだ発売されていないことも原因だろう。

「自炊」に必須の機器であるFujitsu ScanSnapを私は2006年から会社でも自宅でも使っているし、PLUSの裁断機も今年の春に自宅に購入済みである。これらがKindleが来てからいよいよ本格稼働した感じだ、予定調和的に。

約二ヶ月間大小Kindle端末による新しい読書を体験したわけだが、初期の興奮もだいたいおさまって、今は定常状態を迎えたように感じている。そろそろ電子書籍体験の感想をまとめてみようと思う。